迷人の雑言(平成27年分)

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12月分( 「ユニバーサル・デザイン」 )
27-12-01
 
 今月は「ユニバーサル・デザイン」などについて一言。

 「ユニバーサル・デザイン」というのがあります。
 「文化・言語・国籍の違い、老若男女といった差異、障害・能力の如何を問わずに利用するこ
とができる施設・製品・情報の設計(デザイン)」
 ということだそうですが、要は「誰にでも使いやすい」ということが重要な要素のようです。

 シャンプー容器にギザギザがついていますが、これはリンスと区別するためのものです。
 同じ容器で並べて置かれたシャンプーとリンスを見たとき、どちらがシャンプーなのかわから
なくなるときがあります。
 また、髪を洗っているときは、誰しも目をつぶります。
 そんなときに、このギザギザをさわれば、確認できます。
 目が不自由であろうとなかろうと、誰にとっても便利なデザインです。
 こういうのを「ユニバーサル・デザイン」というのだそうです。

 最近はお医者さんに行くことが多くて、診てもらうもらう診療科も「内科」、「耳鼻科」、「眼科」、
「整形外科」、「歯科」などいろいろあります。
 医療費もどんどん増えて10万円を超えるようになり、確定申告で医療費控除を受けるように
なりました。
 医療費控除を受けるためには、診療費の領収書を保管しておく必要があります。
 ということで、領収書を日付順にクリップで留めて保管しているのですが、管理しにくくて困っ
ています。
 領収書の紙の縦横サイズがお医者さんごとに違っているのです。

 「ユニバーサル・デザイン」などと大仰なことは言いませんが、紙のサイズぐらい医師会で統
一してもらえないものかと思います。
 領収書に印刷されている中身は基本的に同じようなものです。
 お医者さんが使っている清算システムのコンピュータソフトの違いによって領収書の紙のサ
イズが違っているだけなのです。
 難しい問題ではありません。やる気だけの問題です。
 お医者さんにとっては、紙のサイズがどうであろうが特に困らないから問題にならない。
 でもそんなこと言っている時代じゃないんですけどねえ。

 「マイナンバー」を使って診療記録を一元管理して行こうかなんてことが言われている時代に
何とも時代遅れな話です。
 もっとも・・・。
 一元管理といっても、単純にデータを一か所に集めればいいというものではありません。
 情報の共通化、標準化を行った上でデータを統合しないと、せっかくデータを集めても単にゴ
ミ箱に入れただけということになってしまいます。
 領収書の紙のサイズの共通化ぐらいができなくて、診療記録の一元管理なんてとてもできる
とは思えません。

 年金記録問題も「マイナンバー」がなかったから起きたわけではありません。
 「マイナンバー」があったとしても、ただそれだけで問題が起きなかったわけではありません。
 「マイナンバー」は管理をやりやすくする手段の一つでしかありません。
 共通化、標準化、一元管理という問題意識があって、それを推進する組織があればどんな
環境下でも問題を起きないようにすることはできます。
 「マイナンバー」があろうが、その問題意識と推進組織がなければ問題は起きます。
 「共済年金」で問題が起こらなかったのは、その問題意識と推進組織があったからでしょう。
 「厚生年金」や「国民年金」は公務員の人たちにとって人ごとだったということです。

 「共通化」とか「標準化」というのは全ての分野に関する基本事項です。
 何事につけ、そういった意識を持たないかぎり、質の向上はありません。

 「マイナンバー」の活用でカルテの一元化が成され、医者を変わるたびに「MRI」や「CT」など
の高額な検査をやり直さなくてもいいようにしたり、「お薬手帳」を持たなくてもいいようにした
り、我々が利便性を実感するような施策が行われることを望みます。
 当面は無理かもしれませんが。
    

11月分( 「ポテンシャル」 
27-11-01
 
 今月は「ポテンシャル」ということについて一言。

 「ポテンシャル」を辞書でひくと「潜在的な力、可能性としての力」とあります。
 物理で「ポテンシャル・エネルギー」というのを習いました。
 「位置エネルギー」のことです。
 地球には重力がありますから、物の存在する場所によって、それだけでエネルギーを有する
ということです。
 川は(水が)高いところから低いところへ流れますが、それはこの「位置エネルギー」を調整す
るために起こる自然の現象です。

 ちょっと脱線しますが、昔 「川は流れる」 という歌がありました。
 「わくら〜ば〜を〜 きょうも〜 うかべ〜て〜 ・・・」
 ある人が言いました。
 「川は流れない。水が流れて川になるんだ。」
 まあだけど風情・情緒として「川が流れて」もいいんじゃないでしょうか。

 さらに脱線を続けると・・・。
 昔 「24000のキッス」 という歌がありました。
 「1秒のキッスを 一日続ければ 24000 ・・・」
 というもの。
 1秒毎にキッスををするとすると、1分間に60回。24000回するのには400分。
 7時間弱で終わることになります。
 ちょっと計算が合わないような気がしますが、職場での話と考えれば、仕事もせずにせっせと
キッスを繰り返し、昼食と休み時間はしっかり休憩た上で、定時になったらさっさと退社したと
いうことかもしれません。
 また、「1秒のキッス」はキッスをしている時間と考えれば、間隔は言ってないので、まあなん
やかんやしながら24000回になったということかもしれません。
 いずれにしてもそんなことを突き詰めてもしかたありません。情緒の方が重要です。

 本題に戻って・・・。
 「ポテンシャル・エネルギー」に差があると、その差を調整しようとして動きが起こります。
 したがって動きが起こらないようにするためには、その「ポテンシャル・エネルギー」を均一に
する場を提供することが必要です。
 まっ平な広場ではボールも転がらないし、水も流れません。

 「ポテンシャル」という言葉を一般社会で使うようになりました。
 そこで使われる意味が「潜在的な力、可能性としての力」ということでしょう。
 「仕事のポテンシャル」とか「運動のポテンシャル」とかのようにいい意味で使われることもあ
りますが、「災害ポテンシャル」や「犯罪ポテンシャル」のように「悪いことの起こる可能性」とい
う意味(「負要因のポテンシャル」)でも使われます。

 「悪いことの起こる可能性」という意味のポテンシャルについては、「位置エネルギー」と同じ
ようにエネルギーを均一にする場を提供しなければなりません。
 ポテンシャルの差があれば、それは同じ状態を維持することは難しく、いずれなにかの刺激
で動き出すということです。
 以前、「出来心」のところでも書きましたが、犯罪が起こらないようにするためには、犯罪を誘
発しないような環境を提供しなければなりません。
 逆に言えば、「犯罪を誘発するような場を作るな。」ということです。

 最近、横浜のマンションで杭打ちの不具合がありましたが、テレビでの報道を見ていると
 「建設業界ってずい分ローテクなんだなあ。」
 と思いがしました。
 データの改ざん・偽装が問題となっていますが
 「測定器の電源を入れ忘れた。」とか「紙切れになっていた。」とか「紙が雨で濡れてしまっ
た。」とか、このコンピュータ時代に考えられないような言い分。
 「あとでデータを作らせたら、改ざん・偽装なんてことが起こるに決まっているがな!」

 今回も言われました。
 「性善説に基づいているから。」
 やはり痛い目に合わないと変わらないのでしょうか。
 ただ、建設業界では以前「耐震偽装」の問題で大もめにもめました。
 「耐震偽装」は設計の段階でしたが、今回は施行での問題。
 同じ業界内でも「他山の石」としなかったんでしょうねえ。

 でも、業界関係なく、ポテンシャルという考え方は同じです。
 「水は高いところから低いところへ流れる。」
 流れて困るんだったら流れないようにする。
 ポテンシャル的に言えば、場をフラットにするということです。

 流れない手段として、土手を作って水を囲うということも考えられますが、「じゃあその土手が
壊れたら?」・・・と際限のない世界に入ってしまいます。
 そこで「土手は壊れないことにしておこう。」というところで手を打つ。
 いわゆる「安全神話」です。これはまさに事実ではなく「神話」なのです。
 その論理で破綻したのが福島の原発です。

 世の中にはいろんな分野の、いろんな種類の「負要因のポテンシャル」が存在します。
 すべてとは言いませんが、「人の生命と財産」にかかわるものについては、きちんとそのポテ
ンシャルの差を取り除く努力が求められます。
    

10月分( 「マイナンバー制度」 )
27-10-01
 
 今月は「マイナンバ^制度」について一言。

 「マイナンバー制度」が実施されることは知っていましたが、近々国民に通知されるという段
階まで来ているということは知りませんでした。
 「マイナンバー制度」というのは、国民にユニークな背番号をつけて様々な情報を管理したり
事務処理したりしようとするものです。

 この制度に関しては長い間導入に至りませんでした。
 社会党などを中心とした左巻き勢力が
 「国民に背番号をつけて管理するなんてもってのほか。」
 といったほぼ情緒的な理由で反対してきたからです。

 私はこの制度には賛成です。
 これだけ「情報社会」、「コンピュータ社会」になっているのに、一元管理するユニークな「キ
ー」がないこと自体が異常な状況なのです。
 「「マイナンバー」さえあったら、消えた年金問題なんて起こらなかったのに。」
 今更悔やんでも後の祭りですが。

 銀行なども、顧客の一人ひとりにユニークな番号をつけて管理しています。
 口座番号とは別にCIF番号というのがあります。
 口座番号は複数ありますが、CIF番号というのは顧客一人に対して一個のユニークな番号と
なっています。
 銀行でも昔は口座番号ごとに個人情報を管理している時期がありました。
 印鑑も通帳ごとに別々に登録されていました。
 「それではきちんと管理しきれない!」
 ということで、CIF番号というのが採用されたわけです。
 今では「共通印鑑」といって、登録する印鑑も一人当たり1個となっています。
 「マイナンバー」が普及すると、銀行もCIF番号ではなく、「マイナンバー」で管理していくこと
になるんだと思います。

 ちょっと話が横道にそれますが、消費税の軽減税率導入というのがあります。
 消費税が10%になった時に食料品などは8%に据え置きするというものです。
 要は2%分の軽減ということです。

 前回の衆院選の時、公明党が選挙公約のトップにあげた政策です。
 「えっ。そんな低次元な政策しか公約のトップに上げられないの?」
 と思わず突っ込んだものですが、まだその火は消えてないようです。
 公約のトップに上げたくらいですから、政党として導入方法などはさぞかし具体案が出来上
がっているものだと思っていましたが、そうではなかったようです。
 最近になって自公であれこれ検討したものの、良い知恵が浮かばず財務省に助けを求めた
ようです。

 私はこの軽減税率には反対ですが、もともと財務省も反対のはずです。
 そんな財務省に助けを求めるなんて、どうかと思いますけどねえ。

 それでも財務省は財務省なりに案を提示しました。
 そこに出てくるのが「マイナンバー」です。
 食料品はすべて軽減税率の対象とするものの、売り場では10%の消費税を払わせた上で、
「マイナンバーカード」を売り場で提示すると、のちのち一人当たり年間4,000円まで還付さ
れるというものです。
 この案に対して公明党の議員が
 「いい案だ。」
 と言ったとか言わないとか。

 私の感想としては、この財務省の案は穴だらけでまともな案とは思えません。
 「マイナンバーカード」を売り場で提示するのは面倒だし、子育て所帯だと赤ちゃんの「マイナ
ンバーカード」まで使い分けないといけないし・・・。
 「マイナンバーシステム」が当面整備されない段階での案だからだとは思いますが。

 公明党もさすがに不備に気付いたか
 「こんなんでは来年の参院選で戦えない。」
 という声が上がっているそうです。
 「えっ。参院選もまた軽減税率で戦うの?」

 ただ財務省もそんなことは先刻承知なんでしょう。
 「マイナンバー」を使うということに主眼をおいて出してきた案なんだと思います。
 最終的には
 「「マイナンバー」で収入・所得を補足し、所得に応じてなにがしかの額をを還付するようにし
て軽減税率は廃止する。」
 ということを狙っているのではないでしょうか。
 「マイナンバーシステム」が充実すれば、所帯当たりの収入・所得も把握できますから、的確
に還付することができます。
 「マイナンバーカード」を売り場で提示する必要もなくなりますし
 「家族全員の「マイナンバーカード」を持ってお母さんがお買い物。」
 みたいなバカなことはしなくて済みます。

 「マイナンバー」の導入で個人情報の行き過ぎた管理や漏洩などを心配したり批判したりす
るむきもありますが、そういったデメリットも確かにあると思いますが、もっと大きなメリットを享
受することに期待したいと思います。
 住基ネットの導入の際にもいろいろな心配や批判がありましたが、今では何事もなかったよ
うに淡々と忘れ去っています。

 そういえば、「住基カード」と「マイナンバーカード」はどういう関係になるんだろう。
 ・・・って調べてみたら、「住基カード」は「マイナンバーカード」に統合されるそうです。
 両者を同時に保持することはできないそうで、「マイナンバーカード」を作ったら「住基カード」
は返納しなければならないとのこと。
 「住基カード」に入れてある「電子証明(3年)」は「マイナンバーカード」に移せないそうです。
 ということは、「マイナンバーカード」を軽減税率の関係で申請すると、「電子証明」は捨てなき
ゃいけないということになりますので、このへんでも財務省案には穴があるということです。

 さて今後の「マイナンバーシステム」の展開やいかに。
    

9月分( 「戦後70年談話」 )
27-09-01
 
 今月は「戦後70年談話」について一言。

 8月というと「原爆投下の日」、「終戦の日」があります。
 「記念日」とも言うそうですが、私としてはどうもそう言いたくない気分です。
 
 毎年この時期は重〜い気分になって好きではありません。
 テレビでもいろんな特集をやりますが、私は全く見ることはありません。
 中国、韓国は「歴史認識を・・・」などと毎年同じことを言います。
 「核兵器反対」というのも、そのこと自体がいろんな左巻き勢力によって利用され、本来の反
対運動とは違った方向へ進んでしまったりしています。

 戦後70年ということで、安倍総理が談話を出しました。
 過去の談話を引き継ぐということだったのですが、中国や韓国などは批判的な論評です。
 まあ、中国や韓国、特に韓国はどんな表現をしようが批判するわけですから特に気にする必
要はないと思いますが、国内の民主党や共産党も同じように批判していたのが気になります。
 国益を考えたらむやみに批判するのはどうかと思いますけどねえ。

 何でも批判する共産党はともかく、民主党までが共産党と同じように何でも批判する。
 「何でも批判する勢力なら共産党だけでいい。」
 ということで、共産党の支持率が上がっているそうです。
 「政権担当能力がなくて何でも批判する勢力の民主党は要らない。」
 ということですが、私もそう思います。

 さて「戦後70年談話」の中で安倍総理は
 「孫・子の世代まで「おわび」をさせてはならない。」
 ということを言っていましたが、まさにその通りだと思います。
 第一義的な戦争責任は当時の指導者にあるわけで、それらの人たちは「戦犯として処刑」さ
れたことで、一応のけじめはついています。
 国家としての責任はありますが、こちらは「戦後補償」のような形で中国・韓国とは決着がつ
いています。
 日本国民は過去の反省に基づく「不戦の誓い」を持つことは必要だと思いますが、いつまで
も「おわび」をする必要はないと思います。
 多くの日本国民は被害者でもあったわけですから。

 韓国の朴大統領は
 「日本とは1,000年仲良くなれない。」
 と言っているわけですから、相手にしても仕方ありません。
 東日本大震災が起きて多くの日本人が亡くなった時、韓国人は「いい気味だ」と喜んで祝杯
をあげたそうです。
 そんな犬畜生のようで、蚤のキンタマほどの了見しか持ち合わせていない韓国人と仲良くす
るなんて、こちらの方から願い下げです。
 とはいえ、それほどコケにされても韓流スターの追っかけをするオバサンがいたりするわけ
で、日本人はつくずく能天気だなーと思います。

 中国はなんだかんだいっても国家として一定の了見は持っています。
 それと、中国の一般国民はそれほど反日ではないようですから、韓国と違って中国とはほど
ほどに付き合っていけるのではないでしょうか。

 いろいろ意見はありますが、私は安倍総理の「戦後70年談話」は評価できる内容だったの
ではないかと思っています。
    

8月分( 「有識者」 )
27-08-01
 
 今月は「有識者」などなどについて一言。

 結局0ベースでの見直しということになりましたが、一時オリンピックに向けた新国立競技場
の建設が、2.520億円かけて当初予定通りのデザインで行われることが決定しました。
 この決定を下したのが「有識者会議」なんだそうです。
 その「有識者会議」のメンバですが
 森さんやら舛添さんやら竹田さんやら・・・。
 いったい何の「有識者」なんでしょう。

 問題になっているのはあのキールアーチ構造の屋根を作ることの良し悪しなんですが、そ
んな問題に関して森さんが「有識者」であるはずもありません。
 唯一の「有識者」らしき「安藤」とかいう建築家はこの会議を欠席してしまったとのこと。
 この建築家はデザインコンペの審査委員長だったそうで、あのキールアーチ構造の屋根
の推進派らしいのですが、状況が怪しくなったので逃げてしまったといったところでしょうか。

 その後この「安藤」氏、会見を開いてニコニコしながら無責任でいい加減なことを発言をし
ていました。
 新国立競技場建設にかかわっていた人物には、ろくなのがいないようです。

 よく「有識者会議」というのが開かれますが、まあたいがいは官庁のお手盛り会議といったと
ころが相場です。
 新国立競技場の「有識者会議」にしても、お金がいくらかかろうが現状の方針のまま進めて
行くという、官僚たちに「お墨付き」を与えるだけの「御用会議」ということでしょう。

 もともとこの新国立競技場、あの妙なデザインを採用するにあたり、コストの確認はしていな
かったようです。
 民間企業ではあり得ない話ですが、「お上」では許されるというか、それが当たり前の手法の
ようです。
 ダムの建設にしても同じです。
 ダムを作ることだけ決定し、工費は適当に積み上げておく。そして時がたつにつれて工費の
上積みをして済ます。
 まあ、どうせ税金、他人の金ですからね。

 新国立競技場の工費だって、あと5年もあったらどんどん上積みされて2,520億どころか
3,000億、4,000億になってしまっていたことでしょう。
 だいたい20億円なんて端数の精度があるわけがありません。
 「2,500億円ぐらいにしておこうかなー。」
 ぐらいのもんです。
 それでも誰も責任はとりません。
 もともと誰が責任者かもわからないわけですから。

 新国立競技場の問題は、国民の批判を受けて政権のダメージが大きいと思ったか、計画を
見直すことになりましたが・・・。
 「1,800億円にコスト低減できました。」
 みたいな結論になるんじゃないでしょうか。
 2,500億円でびっくりしている国民には、かなり安くなった感じがしますからね。
 本来1,000億円を超えるような競技場を作ること自体が法外だと思いますが。

 国会の「参考人」や「地方公聴会」などにも「有識者」というのが出てきて意見表明をしたり
しますが、これもおざなりの意見です。
 政治家や役人の「おざなり仕事」に加担しているだけのことです。
 原発事故の時にもそうでしたが、「有識者」というのはまず信用できないというのが常識に
なってしまいました。

 ところで、お役所の「おざなり仕事」はもはや驚くところでもありませんが、学校の「おざなり
仕事」についてはそんなことも言っていられません。
 教師も公務員ですから「おざなり仕事」になる要素は多分にありますが、生徒の生死にもか
かわることですから、それなりに緊張感はもってもらいたいものです。
 が・・・。
 岩手中2いじめ自殺に関しては
 「それはないだろう!」
 といった感想です。
 生徒がいじめに関して何度も担任教師に訴えていたにもかかわらず、その担任教師によっ
てその事実が握りつぶされてしまったようです。
 担任教師個人の問題か組織的問題かわかりませんが、いずれにしても「見てみぬふり」、
「臭いものには蓋」といった意識構造があったことは事実でしょう。
 以前にも書きましたが、「いじめた者を糾弾するか」、「いじめを見て見ぬふりをするか」とい
ったら、教師にとっては「見て見ぬふりをする」方が圧倒的に有利という現実があるからこそ、
こういったことが続発するわけです。
 文科省からの「いじめを減らせ」という指導に対して「いじめが無かったことにする」という対
応をすることが、教育委員会も学校も常識化されてしまっているようです。
 
 この「いじめ」の件で「第三者委員会」が設置されるそうですが、ここにも「有識者」なる人が
出てきて「おざなりな」結論を出すようなことが無いようにしてもらいたいものです。
 尾木ママは
 「委員は全部県外から選ぶべき。」
 と言っていましたが、教育委員会が真に問題に向き合えば、「有識者」選びもまともになる
のではないでしょうか

 「市民団体」や「有識者」。
 悪いイメージの象徴になってしまっています。

 ついでに「安保法制」について一言。
 いろいろ議論が行われているようですが、民主党などは「徴兵制になる」などと「安保法制」
とは関係ない「荒唐無稽」なことを言って国民を惑わしています。
 「戦争法案」などと称している週刊誌もあります。
 「集団的自衛権は憲法違反だ」という主張をしながら、一方で「憲法改正反対」を唱える古典
的な左翼勢力がいたりする中のごちゃごちゃの議論。
 ここにも「市民団体」というのが出てきて混ぜっ返します。

 世論調査を行うと、「説明が尽くされていない」という回答が圧倒的に多いようですが、こん
な中身をいくら説明したって、無関心な国民が理解できるわけがありません。
 そんな国民に
 「あなたは説明が尽くされていると思いますか?」
 という質問をしたら
 「尽くされているとは思わない。」
 という回答が多数になることは、調査をしなくたってわかります。

 選挙の時に
 「期待する政策は?」
 という質問をすると必ず
 「景気対策。」
 と馬鹿の一つ覚えみたいに答えるような、思考力のないワンパターンな国民。
 もともと世論調査なんて意味がないと思っていますが、有事法制のような問題での世論調
査はなおかつ意味がないでしょう。

 ギリシャの国民投票をハナで笑っていますが、日本国民だって大して程度は変わりません。
    

7月分( 「性善説」など )
27-07-01

 今月は「性善説」、「性悪説」、「出来心」について一言。
 以前にも書いたことがありますが、最近気になったので、視点を変えてもう一度。

 人間は「自我心」を持った時から「性悪説」として考えきゃいけないと思っています。
 1歳のこどもに「自我心」などはない・・・とも言えませんが、まずそんなにあくどい心は持たな
いと思いますので、小さなこどもは「性善説」に立ってもかまわないでしょうけど。

 お釈迦様は悩み(煩悩)を持ち、苦しみ、これをいかに乗り越えるかを修業し、そして悟りを
開かれたのですが、お釈迦様ですら「性悪説」側の人間として扱わざるをえません。
 煩悩=性悪と考えられますから。
 
 お釈迦様の悩み(煩悩)・苦しみを四苦八苦と言います。
 四苦+四苦=八苦の八苦です。四苦+八苦=十二苦の八苦ではありません。
 四苦があり、その上にさらに四苦があるということです。
  最初の四苦  @ 生苦(しょうく)・・・生まれゆく苦しみ
         A 老苦(ろうく)・・・・老いる苦しみ
         B 病苦(びょうく)・・・病気になる苦しみ
         C 死苦(しく)・・・・・・死にゆく苦しみ
  次の四苦   D 愛別離苦(あいべつりく)・・・愛する人と別れなければならない苦しみ
         E 怨憎会苦(おんぞうえく)・・・憎む人とも会わなければならない苦しみ
         F 求不得苦(ぐふとっく)・・・・・求めるものが手に入らない苦しみ
         G 五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・人間が生きるうえで常に沸き上がってくる  
                         心身から生じる思うようにならないあらゆる苦しみ

 最初の四苦は「生きる苦しみ」です。
 が・・・「生・老・病・死」そのものは自然な流れです。

 川は高いところから低いところへ流れて行きます。
 その川に笹船を流すと、当然流れに乗って高いところから低いところへ流れて行きます。
 これは自然な流れです。
 ところが、その笹船を「あそこに留まってほしい」と願うのがいわゆる煩悩です。
 自然な流れを受け入れられないことこそが煩悩であり、欲望なわけです。

 老・病・死を受け入れられないことが煩悩であり、それがゆえに生(生まれること)そのものが
苦しみとなってしまいます。

 兵庫県の県議が「政務調査費」を不正使用したことが一時話題になりました。
 この時言われたのが
 「政務調査費の使途についての規定は、「性善説」に基づいて出来ている。」
 ということでした。
 おかしいでしょう。「性善説」なんて成り立たないのに。
 昔からよく言われます。
 「政治家に倫理を求めるのは、八百屋で魚を求めるようなものだ。」
 それでも「性善説」なんて言っているのは方便でしかありません。
 まあ「お手盛りにしました」ということの変態活用なんでしょうけど。

 「性悪説」といっても、もとから悪事を考えていたのと、突然思いついたのとは違います。
 そこで出て来るのが「出来心」というやつです。
 「出来心」と言うのは、今まで犯罪を犯すことなく真面目に暮らしてきた人をも罪人にしてしま
います。
 これは、本人が抑制できなかった点も責められますが、そういう環境を作り上げた人たちに
も一端の責任があります。

 「政務調査費」だって、「領収書さえ出せば一定額は必ず支給する」という環境を作ったら、誰
だって満額もらえるように領収書を作ろうと思ってしまうのは自然の流れです。
 ちょっと下世話になりますが、道端の手が届くようなところにパンティが干してあったら、その
パンティを盗もうと思う男が出て来るのも自然な流れです。

 私が銀行ATMの仕事をしていた時、現金の取り忘れに関する議論を盛んに行いました。
 信じられないかもしれませんが、ATMでお金を引き出した時、カードや通帳は取っても現金
は取らないで帰ってしまう人が結構いるんです。
 その取らないで帰ったお金は、ATMの現金口にむき出しで残っているわけです。
 そのままほっておくわけにはいかないので、一定時間経ったらATM内に取り込んで回収す
るという機能がついています。
 問題は、どれくらい時間が経ったら回収するかということです。
 もちろん、そのお客さんが気が付いて戻って来て取って行くことも考慮します。
 もう一つ大事なのは、ほかのお客さんがそのお金に手を伸ばしてしまう、いわゆる「出来心」
を起こさせないための時間でした。
 現在のATMはいろんなことが考慮されて回収までの時間が設定されているはずです。

 要はいかに「出来心」を起こさせないようにするかを、社会も個人もよーく考えないといけない
ということです。

 「政務調査費」にしても、選挙の「ポスター代」や「ガソリン代」などにしても、領収書を出したら
お金を渡すなんてことをしないで、平均的な金額をよく調査して「渡しきり」にすればいい。
 「一律ではちゃんと働いている人とそうでない人とで不公平になる。」
 という人もいますが、「歳費」だって働いている人も、ただいるだけの人も同じです。

 長い財布をすぐ抜き取れそうなケツのポケットに入れない。
 パンティは外から見えないところに干す。
 若い女の子はケツが半分見えるようなショートパンツをはいて電車に乗らない。

 等々・・・「出来心」を起こさせない策はいくらでもあります。
 「性悪説」が基本にあるからこそ、犯罪者を作り出さないような環境を作らないといけません。
      

6月分( 「目配り」、「気配り」など )
27-06-01

 今月は「目配り」とか「気配り」とかについて一言。

 辞書を引くと、「目配り」というのは
 「いろいろな所に注意を行き届かせること。」
 とあります。一方「気配り」というのは「目配り」と同様に
 「あれこれ気を使うこと。手抜かりがないように注意すること。」
 という意味がありますが、他に
 「心づかい。配慮。」
 という意味があります。これが大事なのです。

 仕事を行う上では特に「目配り」が重要です。
 「あの行程は予定通り進んでいるか。」
 「あの手続きはちゃんと行われているか。」
 などなど、いろんなことに注意を払っていかなけらばなりません。
 従って、「目配り」の出来ない人は「仕事の出来ない人」ということになります。

 「気配り」の特に「心づかい、配慮。」という点は、自分以外の相手に対しての気持ちの使い
方ということができるでしょう。
 気持ちが入っていること、あるいは気持ちが入っているように見せかけることが大事です。

 事例1
 決まったメンバでゴルフをしている仲間の中に、新しいメンバが誘われて入って来ました。
 幹事から、参加者全員にゴルフ開催の案内のメールが発行されました。
 その新しいメンバから「全員に返信」で返事がありました。
 その冒頭には「幹事さま」とだけあり、文面には「初めて参加させてもらいます。よろしくお願
いします。」とありました。
 こういうのを「気配りのない」メールと言います。
 冒頭で「幹事さま、皆さま」とするだけで、気配りの一端が垣間見えてきます。

 事例2
 私は以前民生委員をやっていましたが、卒業式や入学式の時期になると学校から「来賓とし
ての出席依頼」の往復ハガキが来て、出欠をハガキで返事するようになっています。
 それ以外にも学校と意見交換をする場があったりしますが、この時は「出席依頼」のハガキ
だけで、出欠の返事を求める往復ハガキにはなっていません。
 この違いは何だと思いますか?
 これは単に学校側の都合だけなのです。
 卒業式や入学式は、学校側がひな壇の席をどれだけ用意しないといけないのか、その数を
知りたいだけのために往復ハガキを送っているのです。
 一方、意見交換会などでは、席の準備というより会議室を一つ用意しておけばいいだけなの
で、一方通行のハガキになっています。 
 でも、ハガキを受け取る側は、どちらであっても出欠(特に欠席)は連絡すべきものです。
 ところが、意見交換会のハガキには、欠席の場合に連絡すべき担当者の名前も電話番号も
書いてなくて、単に校長先生名でのハガキになっています。
 学校の電話番号やメールアドレスを調べて校長に欠席の連絡をしろっていうこと?
 要は欠席の連絡なんて要らないということで、それほどにその意見交換会を重要視していな
いということが透けて見えてしまいます。
 学校にしてこの「気配り」のなさ。

 世の中には、こうした「気配りのない」行為が溢れかえっています。
 学校も、役所も、地域も、仲間も、客商売ですらも・・・。
 お金も労力も大してかからないのに、なぜちょっとした「気配り」ができないのか。
 客商売などでは集客にも影響することなのに、いかにももったいないことだと思います。
 
 でもまあ、ちょっと気にし過ぎですかね。
 一般社会では、相当鈍感にならないと暮らして行けないというのが実情ですから。

 ・・・と以上で終わる予定でしたが、腹が立ったのでもう一言。
 浅田真央が現役続行するんだそうです。趣味的感覚で続けるような雰囲気でした。
 マスコミもこれを大々的に取り上げてちやほやしています。
 でもねえ・・・。
 羽生選手など真剣に次のオリンピックを目指して頑張っているほかの選手に失礼千万。
 もともと精神が軟弱で、ここ一番で結果が出せない情けない選手。
 もういいから消えてくれ。お姉ちゃんもいっしょに。
      

5月分( 「男女の差」
27-05-01

 時々、近くの山の遊歩道に山歩きに行きます。
 平地と違って、山では途中ですれ違う時、「こんにちは」などと挨拶をかわすことが多いです
が、挨拶をかわす人は男女差がずい分あると思います。

 感覚的な数字なのですが・・・。
 相手が一人の場合、男の人だと70〜80%の人が挨拶をくれます。
 それに比べて女の人だと50%ぐらいでしょうか。
 これが複数人で連れ立っている場合、男の人の場合は挨拶をくれる割合は変わらない感じ
がしますが、女の人の場合は極端に少なくなって、20〜30%ぐらいの感じがします。
 相手が女の人2人以上だと、ほぼ100%挨拶はくれません。
 この男女差はいったい何なんでしょう。

 男女平等とか、男女機会均等とかいろいろ言われますが、いろんなところで男女の資質の
差があることは確かです。
 その違いを認識した上で、平等とか均等とかいう議論をしないと、本当の平等や均等は生ま
れません。
 ただし、世の中いろんなことが極論に走ってしまうので、なかなか冷静な議論とはなりません
が。

 「国会も女性議員を増やすべきだ」と言われますが、いまの国会にいる女性議員をみている
と、いかにも程度が低くて、「女性なら何でもいい」とはとても言えない状況だと思います。
 何でもそうですが、地位や権利といったものは、先人が勝ち取って築いてくれたものをベース
に各人が更にまた努力を重ねて勝ち取るものです。
 誰かに与えてもらうものと考えているとすれば、いつまでたっても真の地位や権利は得られ
ません。
 「権利の主張」だけでは何も前進しないということです。
     

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