最近思うに、どうも本質から離れた議論が行われたり、本質から離れた方向に行ってしまっ
ている事象が多く見受けられます。
その1 : 原発の再稼動問題
「ストレステストの結果がOKだから安全・安心だとして再稼動を認める。」
これって、本質論ではないと思います。
従来、「原発は安全・安心である」という幻想の上にいろんな体制が出来ていて、「想定外」
の津波が押し寄せたら、大混乱が起きて制御不能になってしまったというのが現実です。
安全策を追求することは必要ですが、それで原発が絶対安全になるわけではありません。
そもそも原発なんてーのは、実に危険なものなのです。
そういう危険なものが危機に陥った際に、いかに冷静に制圧する組織・体制ができているか
どうかが安心を得られるかどうかの本質です。
一度危機に陥った原発を制圧するためには、軍隊並みの体制が必要です。
まじめな話、原発事故の際に指揮をとる体制は、自衛隊の中にあった方がいいのかもしれま
せん。
チェルノブイリでは、命をかけて突入してバルブ操作したのは、軍隊の志願者だそうです。
いわば「特攻隊」です。
そういった危機対応の組織・体制の議論がないまま、いつのまにかまた、安全・安心の幻想
の世界に戻ろうとしています。
その2 : 音声添付メールの問題
「災害時などに便利」とかで、メールに音声を添付する機能を携帯電話会社がこぞって提供
するんだそうです。
でもこれってなんか変ではありませんか。
災害時には、通信量を極力少なくする方策を考えるのが本質だと思います。
音声を添付するメールが多くなれば、それだけデータ量が増え、通信設備の能力を圧迫して
しまいます。
災害時になにも音声がなくったっていいのに・・・。
それよりまず、少しでも多くの人のメールがつながることです。
災害時は「ショートメール」だけ可能・・・といった制限を付けたっていいと思います。
どうも携帯電話会社の考えがよくわかりません。
関連してですが・・・。
災害時、緊急時の市民に提供する情報というのは、出来る限り情報量が少ない方がいいと
思います。
情報がいっぱいあるというのは、ほとんど情報が無いというのに等しいと思います。
例えば「緊急地震速報」というのがありますが、大した地震でもないのに発表されると、その
価値がどんどん薄れてしまいます。
3/14に三陸沖で地震があり、「津波注意報」が発令されました。
ある地域では
「ただちに高台に避難して下さい。」
などと誘導していました。
でも、こんなことをしていたら、そのうちまた誰も避難しなくなります。
「「大津波警報」が出た時だけ高台に避難して下さい。」
といったように、情報を絞らないと、どんどん情報の価値が薄れていきます。
その3 : 孤立死問題
孤立死・孤独死問題が話題になっています。
「何ヶ月もたって死んでいるのが見つかった。」
「どうしてもう少し早く見つけてやれなかったのか。」
などという議論がありますが、これも本質論ではないような気がします。
死んでいるのであれば、翌日に見つかろうが1ヶ月後に見つかろうが大差はありません。
「家族といっしょに住んでいて、朝起こしに行ったら死んでいた。」
これも死んでいるのであれば大差はありません。
死の尊厳といった情緒的観点では違うと思いますが。
孤独死とはいったい何なのか。
死んでから見つかるまでの時間が長いと孤独死と言われます。
でも、本質的な孤独死というのは
「死に至るような事象が起きたのに、誰かに伝えることができずに、救命処置を受けられない
まま死んでしまった。」
ということなのではないでしょうか。
死んだ人を早く見つける努力をしても、本質的には何も良くなりません。
「死に至りそうな人をいかに早く見つけて救助するか。」
といった前向きな手段・方法を見つける努力をしていかなければなりません。
その4 : 市民感覚と市民感情の問題
裁判員制度が発足したのは、司法の世界に「市民感覚を取り入れる」ためということです。
同じことが検察審査会でも導入されて「強制起訴」ができるようになりました。
私は基本的に裁判員制度には反対ですが、それ以上に検察審査会のあり方に大いなる疑
問を持っています。
検察審査会の場合は、「市民感覚」というよりヒステリックな「市民感情」が色濃く反映されて
いるように思います。
小沢さんの強制起訴にしても同じです。
それでは本質的に求めているものとは違います。
ヒステリックな市民感情というのはいろんなところに出てきます。
ヒステリックな感情や思想を持った人間はどこにも存在します。
例えば「田島陽子」氏のように。
原発反対にしてもヒステリックな感情で行動している人がたくさんいます。
そういう状況では本質的な議論は行えません。
島田市が東北の震災瓦礫の受け入れを決めましたが、ここでもヒステリックな感情で受け入
れ反対を叫ぶ「おばさん」がテレビに映し出されていました。
「市民感覚」と「市民感情」は違います。
感情に流されないような冷静が議論が必要だと思います。
こういった本質論へ議論を誘導するためには、マスコミの力が重要なのですが、そのマスコミ
が感情に走った報道や論評をしてしまいますので、ちっとも良くはなりません。
おかげでますます市民は感情に流されてしまいます。
そして、最終的には感情に流されて選挙で投票をしてしまいます。
みんなで本質的な議論をできるようにならないと、この国の将来は明るくなりません。
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