仏教あれこれ


01 お経について
 
 仏教というのは、「お釈迦様」の「教え」に基づいた教義です。
 「お釈迦様」は悟りを開いたあとも、その悟りに至った考えや境地などについて、自身が文字
として残すことはありませんでした。

 「お釈迦様」が亡くなったあと、その弟子たちが「お釈迦様」から聞いた教えを文字にして残し
たのがいわゆる「お経」です。
 従って「お釈迦様」からの伝聞として記されています。
 「お経」の中にはたびたび「如是我聞」という言葉が出てきます。
 「私はお釈迦様からこのように聞きました。」
 という意味です。

 「お釈迦様」が話された内容だけを「お経」と言います。
 従って、例えば「親鸞聖人」が残された教えである「正信念仏偈」などは、一般には「お経」と
呼んだりしていますが、厳密には「お経」ではありません。

 「お経」として残された法門は84,000あると言われています。
 若い時に話されたもの、歳をとってから話されたもの、それにいろんな相手に対して話された
ものなど、いっぱいあるということです。

 「宗派」というのは、その法門の中からこれぞと思う「お経」を信じた者が集まった集団です。
 もっとも、個人個人が「お経」の意味深さを理解するなんてことはできませんから、おのずと
その教えを広める役目を果たす「宗祖」というのが存在します。
 「お経」をきっちり理解し解釈できた人が「宗祖」となり得るわけです。
 その「宗祖」の教えを受け継いで広めて行くのが、各「宗派」の僧侶ということになります。

 「宗派」がいっぱい存在するのはなぜか。
 それは「お経」のどの部分を「これだ!」と思うかによって決まります。
 「お釈迦様」は相手によっていろんな話し方をされています。
 Aさんにはこう、Bさんにはこう、時には全く逆の内容を話されていることもあります。
 そういうのを全部集めたら84,000になるということですから、受け手によって教えの意味
が違って解釈されたりしてしまいます。
 解釈の違いによっていろんな「宗派」ができるわけです。

 ゴルフのレッスンでもそうです。
 治すべき欠点がいっぱいあるとき、ある生徒にはAと言い、別の生徒にはBと言い、時には
全く逆のことを言ったりしています。
 ただし、先生としてはどちらにも正しいスイングを身に付けさせたい思っているわけで、ゴー
ルは同じです。
 その人にとってどこから教えるのが近道かを考えて言っているわけです。

 ゴルフの場合は教えを解釈して実践してみれば結果は出ますが、宗教の場合はそうはいき
ません。
 ただひたすら信じるのみです。
 「信ずる者は救われる。」
 まあ、そういうことです。
      

02 宗派について
 
 宗派というのは、「お釈迦様」の「教え」を同じように解釈する仏教信徒の集団ということがで
きます。

 日本で著名な宗派といえば、「天台宗」、「真言宗」、「日蓮宗」、「曹洞宗」、「臨済宗」、「浄土
宗」、「浄土真宗」などがあります。
 よく「禅宗」と言いますが、「禅宗」という宗派はありません。
 「禅系の宗派」という意味で、「曹洞宗」や「臨済宗」などを総称して呼ぶ時に使います。
 「阿蘇山」というのは「阿蘇山系」の総称で、「阿蘇山」という固有の名称を持った山は存在し
ないのと同じです。

 「宗派」は考え方によって「自力系」と「他力系」に分かれます。
 「自力系」は自身の修行などによる「自力」によって往生するという考え方です。
 「他力系」というのは、自身の修行などによっては往生することはできないことを自覚し、「阿
弥陀如来」の力で往生させてもらうという考え方です。
 ほとんどの「宗派」は「自力系」ですが、「浄土宗」や「浄土真宗」などは「他力系」です。

 仏教用語が一般の用語として使われていることは多いですが、「他力本願」というのも「お
経」の中から派生してきているものです。
 「阿弥陀如来を信じ、その本願力によって往生させてもらう。」
 というのが本来の意味で、「他力」というのは「阿弥陀如来」の力のみを指しています。
 決して「他人任せ」という意味ではありません。

 「本願力」というのは何でしょう。
 「無量寿経」という「お経」の中には、「阿弥陀如来」の前身である「法蔵菩薩」が、いくつかの
「請願(約束ごと)」を掲げて
 「これらを成し遂げられなければ、私は「仏(如来)」にはなりません。」
 という誓いをして修行されたと書かれています。
 そして願いがかなって「阿弥陀如来」となられます。
 願いがかなったその「請願」のことを「本願」と言います。
 その「請願」の18番目に
 「すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、 
 もし生れることができないようなら、わたしは決して悟りを開きません。」
 というのがあって、これを「阿弥陀如来」の「本願力」と言っています。
 「他力系」の宗派では「18番」というのは特別な番号となっています。

 ちなみに一般に「仏」と称している中にも階級があります。
 上から、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天」の順です。
 その中で、「悟りを開いている」のは「如来」のみで、あとは「修行中の身」ということになって
います。
      

03 葬事について
 
 人が亡くなると葬事が行われます。
 仏教の場合の宗教儀式としては、「通夜式」と「葬儀式」があります。

 よく「告別式」という言葉が出てきますが、「告別式」というのは宗教儀式ではありません。
 宗教儀式とは関係なく、故人とのお別れを行う儀式が「告別式」です。
 一般には「葬儀式」が行われたあと、「告別式」が行われることになります。
 葬事の案内として、「通夜式」は何時から、「告別式」は何時からというのを目にしますが、本
来は宗教儀式を案内すべきで、「通夜式」は何時から、「葬儀式」は何時からと案内するのが
良いのではないでしょうか。
 あえて「告別式」を言いたいのなら、「葬儀・告別式」は何時からと案内すべきでしょう。

 「通夜式」に至るまでにそれぞれの場面でお坊さんにお経を上げてもらいます。
 亡くなったばかりの時に上げてもらうのを「枕経」と言います。
 本来、死んで行く人が不安にならないよう、案内として枕元で死をみとりながらお経あげる事
ですが、現在では死後すぐに行われる儀式の1つで、死者に初めて経を聞かせるという意味
があります。
 最近は病院で死亡するケースが多いので、病院で死亡した場合は遺体を自宅または葬祭
場へ搬送した後で行うことが多いようです。

 亡くなった人を家から葬儀場へ送り出す時に上げてもらうお経を「出棺勤行」と言います。
 昔は土葬が多く、人が亡くなるとその家から葬列を作ってお墓まで行き、お墓で「葬儀式」を
行ったものです。
 その時、家からお墓に向かって故人を送り出すことを「出棺」と言いました。
 この時上げるお経が「出棺勤行」です。
 最近では故人が病院から葬祭場まで直送されることも多いですが、その場合は葬儀式の最
初にこの「出棺勤行」を上げるようです。

 葬儀には「香典」を持って行きますが、その袋には何て書きますか?
 「ご香典」、「ご霊前」、「ご佛前」などがありますが、「ご香典」としておくのが無難でしょう。
 「他力系」の宗派である「浄土宗」や「浄土真宗」では「ご霊前」というのは使いません。
 「霊」という考え方がないからです。
 ちなみに、墓石でも「霊標」とは書きません。
 「墓誌」と書くのが順当でしょう。

 弔電や挨拶の決まり文句に「冥福を祈ります」というのがありますが、「他力系」の宗派では
失礼な言葉となりますので注意が必要です。
 亡くなった途端に仏になるという考え方ですから、仏に「冥福を祈る」など失礼千万な話と
いうことになります。

 最近では「葬儀式」が終わり、火葬場で故人を焼いて帰ってきた時に「初七日」を行うことが
多いようです。
 人が亡くなってから7日単位でお経を上げるのが本来で、その最初の7日目が「初七日」で
すが、忙しい世の中になったので、葬儀の日に合わせて「初七日」もいっしょにやってしまうと
いう風潮になっています。

 7X7=49、7日単位の7回目が49日ということになります。
 「自力系」の宗派ではこの49日(中陰)というのには意味があって、極楽浄土に行けるかどう
かの判定が閻魔大王によって行われる期間とされています。
 そのために残った娑婆の人たちも、故人が成仏できるように「追善供養」として祈りをささげ
なければならないとされています。
 他力系の宗派では、亡くなるとともに仏になるという考え方ですから、49日とかに特段の意
味はありませんし、「追善供養」などという意味合いもありません。
 それでも、同じように7日ごとにお経を上げますが、意味合いは「故人をしのび、阿弥陀様に
感謝をする」ということです。
      

04 お仏壇について
 
 お仏壇は、迷える私たちをお救いくださるご本尊さまをご安置するために置くもので、もっとも
尊厳な場所であり、家庭の中心となる場所です。

 うちは亡くなった人がいないから仏壇は不要だと考える方がいますが、そうではありません。
 私たち仏教徒が日々生きる力のもとであるご本尊さまのお慈悲にあうために、お寺の本堂を
そのままミニチュアにして家の中に置いたものです。

 ですから、お仏壇は、仏教徒が毎日すぐにお参りできるように家の中にお寺の本堂と同じ空
間を作ったものです。
 従って、飾付けもミニチュアの仏具ですがお寺の本堂といっしょです。
 お寺の本堂とお仏壇は大きさこそ異なりますが、宗教的意味合いからは同じものなのです。

 その、ミニチュアのお寺の本堂であるお仏壇に、亡き人がいれば、ご本尊のおそば近くに、
その法名を奉じさせていただいたうえで、ご本尊さまに手を合わさせていただくのです。
 当然ですが、作法も、お寺の本堂での作法と同一です。

 このように、お仏壇は、お寺の本堂を小型化したもので、仏教徒が毎日お参りするためのも
のですから、仏教徒である以上は次男、三男等の別も無く、亡き人がいるかいないかもお仏
壇とは関係がありません。
 「本家にはお仏壇がありますが、私のうちは分家ですから仏壇は要らないのでは?」
 と言われる方がいますが、お仏壇は仏教徒としての必需品です。
 分家にもテレビや電話や冷蔵庫があるのと同じです。
 それぞれの家庭の心のよりどころであり、分家も本家もありません。
 各自がその家々に仏壇を設けるようにしたいものです。

 「お仏壇の無い住まいは家とは言わない。それは小屋である。」
 と言われたりしています。
 「お仏壇を早く買うと死ぬ。」
 などという迷信がありますが、お仏壇を買う買わないで死ぬ時期が変わることはありません。
 死ぬ時は死ぬのです。
 いつ命が終わるかわからないこの裟婆世界で、仏さまを拝み心安らかにお浄土に生まれさ
せていただくように致しましょう。

 もっとも、お仏壇を持たないまま身内に不幸があり、その後の仏事を営む上で急いでお仏壇
を求めるというケースが多いのも残念ながら事実のようです。
 しかしながら、これが決して正しい姿ではありませんので、結論としてはお仏壇の無い方は、
なるべく早目に求めてご本尊さまをお迎えし、日々その尊いみ教えを聞きつつお徳を讃嘆する
生活をしていただきたいものです。

 仏教徒にとって大切なものは、まずはお寺、次に家のお仏壇、その次にお墓です。
 現在の日本では、テレビ報道などの情報の影響で、お彼岸とかお盆が本来の意味から逸脱
し、さもお墓参りの習慣があるがごとく映し出されているために、多数の方がそう思いこんでい
る現状があります。
 お彼岸とかお盆は、日常煩悩のままに生きている私が仏法に出会わせていただく仏教週間
ともいえるものです。
 そのご縁の一つがお墓なのです。

 テレビのない時代ですと、お寺に詣でて、法会(彼岸会や盂蘭盆会)に参加し、法話を聞き、
そしてついでに寺院内の墓地の掃除に行ったものです。
 ですから、お墓参り(掃除)は、本来ついでの行為であって、お墓参りが目的の行為ではあり
ません。
 お墓参りが仏法を聞くために出向く縁とはなりますが、目的ではありません。
 近年のように、公園墓地や霊園というように墓地の形態も変化している現状から、やむをえ
ない一面もありますが、本来の目的を見失っています。

 「お寺にあるお墓にはお参りしたけど、お寺の本堂は素通りしてきた。」
 といった、本末転倒な行ないをしてしまうようなことがないようにしましょう。
      

05 法事について
 
 「法要」というのは、本来は「仏教において、釈迦の教えを知ること。」なのですが、次第に「死
者を弔う儀式」という意味で使われるようになり、やがて「法事」と言うようになりました。

 人が亡くなると、決められた間隔で「法事」を行うようになりました。
 「49日」、「1年」、「3年」、「7年」、「13年」、「17年」、「23年」、、「27年」、「33年」、「37
年」、「43年」、「47年」、「50年」。
 一般的には「50年」で終了ということにしているようですが、各家庭の事情でもっと早く終了
させている人もいます。

 50年も経つと、亡くなったその先祖を知っている人が誰もいなくなってしまうので、一つの区
切りとしているようです。
 有名な人だったら、50年を過ぎても「法事」を行うことがあります。
 その場合は50年単位で行うようです。
 昨年浄土真宗では、「親鸞聖人」の750回忌法要が行われました。

 自力系の宗派では、「法事」には「追善供養」の意味があります。
 「いまだ迷っているかもしれない。」
 ということで、「冥福を祈って」お経をあげるわけです。

 他力系の宗派では、「追善供養」という意味合いはありませんから、故人に対する特別な意
味合いはありません。
 故人を偲び、日ごろ疎遠になっている身内、親戚が集まって、「阿弥陀如来」に感謝するため
にお経をあげるという意味があります。

 「法事」は、主催者である施主とその家族が中心となって準備をし営まれるわけですが、同
時に、案内を受けて参拝した人たちも法事を営む一員であることを心得ておきましょう。
 「法事はもっぱら施主が勤め、我々はそこに招待された者だ。」
 という意識が参拝者の中にあるように思えますが、これは間違いです。
 すなわち、施主が招待する側で、参拝者は招待された「客」というふうに、対照的に捉えがち
ですが、法事の趣旨からいうと、それは問題です。

 「法事」は故人に縁のある人たちが参集して、僧侶を招きともに「供養」をしたり、仏法を聞き
味わうところに意義があります。
 ですから、施主も参拝した人も同じ立場にあるわけで、「法事」に集まった全ての人が「法事
を営む一員」だということです。

 もっとも、具体的に形に表れる準備や進行は、施主やその家族が行うことになりますので、
参拝者は側面から協力することになります。
 例えば、親の年忌法要であれば、子である施主の兄弟で費用を分担してもよいでしょうし、
参拝者全員に配る「お供養」の品を分担し合ったりしてもよいでしょう。

 ところで、「粗供養」とか「○回忌志」と表書きされる「お供養」ですが、これは単なる引き出物
ではありません。
 ご仏前にお供えし、ご本尊さまからの「お下がり」としていただきたいものです。
 参拝者が、当日お供えするものとしては、一般的に金封の「御仏前」や菓子・果物といった供
物類があります。
 「御仏前」が施主への「お礼」でないことはいうまでもありません。
 報謝の心からご本尊さまにお供えするものであり、供物類も同様です。
      

06 ローソクや花を供える意味について
 
 お仏壇のお荘厳(おしょうごん)の基本になるのは三具足(みつぐそく)【花瓶、香炉、ローソク
立て】ですが、それでは、これらの仏具を用いてローソクに火をつけ、お花を立てるのにはいっ
たいどんな意味があるのでしょうか。

 まずローソクについて。
 ローソクに火をつけるのはなぜか?
 ある人は「単に仏壇の中を明るくするため」と思っているかもしれません。
 しかし、それは肝心なことが抜けてしまっています。
 というのも、お荘厳とはご本尊の如来さまを美しくお飾りするものです。
 しかも、単なる飾り付けではありません。
 如来さまが私に向けて下さっているお心を深く味わう上でのお飾りなのです。
 ですから、ローソクの火も、確かに私がつけるのですが、ついた火は如来さまのお徳として
味わうことが大切になってきます。

 ローソクの火には二つの面があります。
 一つは「光」です。
 周囲を明るく照らすその光は、如来さまの智慧を象徴すると言われています。
 心の奥底までも知り尽くし、どろどろとした迷いの闇を隈なく照らして真実に向かわしめる智
慧の光明です。
 もう一面は「熱」で、これは如来さまの慈悲を表すと言われています。
 熱が氷を解かすように、お慈悲の「温もり」が私の固く閉ざした心を解きほぐして下さいます。
 またその炎からも、休むことなく働きかけて下さっている如来さまのお慈悲の心が伝わってく
ることでしょう。

 次に花について。
 ご承知のように、花は万人が愛すると同時に、生活に潤いをもたらせてくれます。
 床の間の生花に心が和み、野の草花に心洗われる方も多いことでしょう。
 また、その可憐な美しさは病人の沈みがちな心を慰め、結婚式では文字通り「花嫁」に花を
添えます。
 このように、誰からも喜ばれる花ですから、敬愛や感謝の代弁者ともなります。 
 こうして見てきますと、心からお敬いす如来さまに花をお供えするのも、ごく自然な行為だと
言えるでしょう。
 すなわち、仏花を供えるのは如来さまのお徳を讃え、そのご恩に感謝する気持ちの表れな
のです。

 しかし、単にこちらの気持ちを表すだけではないのがお荘厳です。
 もしそれだけなら、自分が供えた花にもかかわらず、花びらが如来さまの方を向かずに、私
の方に向けられている説明がつきません。
 これは、私が供えた花はそのまま私に注がれている如来さまのお心を表していると味わって
いくのです。

 以前、「細木数子」という占い師が
 「仏壇に供える花の花びらは如来さまに向けて飾るのが常識だ!」
 みたいなことを言っていましたが、これは大きな間違いです。
 あくまでも花びらはこちら側に向けて飾るのが常識です。
 こんなことでも恥をかかないようにしましょう。

 それはともかく、短い一生にもかかわらず、そのいのちを精いっぱい輝かせて咲いている花
を通して、すべてを生かし育んで下さる如来さまのいのちに触れさせていただきましょう。
      

07 香典は誰のもの?
 
 このところ気になったので一言。

 最近は葬儀の形態もいろいろ簡略化されてきています。
 家族葬だの直葬だの。

 テレビのコマーシャルなどでよく言われています。
 「亡くなって迷惑をかけないように・・・。」
 あるお坊さんが言われました。
 「亡くなった人を丁重にお送りすることが迷惑なんでしょうか。」
 「亡くなった時迷惑をかけると言いますが、それ以前は迷惑をかけてないんですかねー。」
 「人生の最後に1回迷惑をかけたっていいのではないですか?」

 家族葬というのは定義がどうもよくわかりません。
 「積極的に案内をしないで、ごく小人数になるようにするが、来られた方は断らない。」
 というのから
 「ごくごく身内だけが参加するだけで、それ以外の参列者は入場をお断りする。」
 というのまでやり方はいろいろ。
 まあそれぞれの都合でやっているんだと思いますが。

 参列を断ったり、香典を断ったり・・・ですが、香典というのはいったい誰のために持って行く
ものなんでしょう。
 「そりゃ喪主とか当家のために持って行くのさ。」
 という意見が大方かもしれませんが、仏教儀式としての葬儀の中では
 「仏さまにお供えするもの。」
 というとらえ方です。
 葬儀が終わってから、仏さまからの「お下がり」として喪主や当家がいただくことにはなります
から、結果として喪主や当家のために持って行ったことになりますが、意味合いがまったく違
います。
 したがって、喪主や当家が「葬儀への参列や香典を断る」というのは、「仏さまをさしおいて」
ということになり、まことにもって「不遜な行為」ということになります。

 香典に限らず、お供えや供花なども同じです。
 法事の時のご仏前やお供え、それにいわゆる引き出物についても同じです。
 仏教儀式の中ではすべてのものが「仏さまへのお供え」なのです。
 そしてあとから「仏さまからのお下がり」として我々が受け取るものなのです。

 仏教儀式の中で「お斎(おとき)」というのがあります。
 葬儀の前に振る舞われる食事、法事のあとで振る舞われる食事、お寺の行事の際に振る舞
われる食事・・・。これらはみな「お斎」です。
 特に法事のあとの会食は意味合いを間違って解釈されがちですが、「宴会」でも「懇親会」で
も「ご苦労さん会」でもなく「お斎」なのです。
 「お斎」はみな「仏さまからのお下がり」であって、ありがたくいただくものです。
 よく遠慮して「私は結構です。」と断る人がいますが、仏さまからいただくものを断ることも遠
慮することもありません。積極的にありがたくいただきたいものです。

 それから、葬儀などを通して「縁」というのも大切にしたいものです。
 「因縁」という、仏教における基本的な言葉があります。
 「因縁」とは、どんなものも単独でなりたっているものはないということです。
 それは「因」と「縁」によって成り立っているということです。
 そして原因があって結果になることを「因果」または「因縁果」というのです。 
  花が咲くということは、種がなかったら咲きません。
 種は花が咲く「因」になります。
  しかし、種のままでは花が咲きません。
 根をはる土が必要です。
 土には肥料などの養分が必要です。
 さらに、水や二酸化炭素、適度な温度、太陽の光、ときには育てる人の手も必要です。
 それらの花が咲くための間接的な原因を「縁」というのです。
 あらゆる条件が整ってようやく結果として花が咲くということです。
 せっかくの「ご縁」の場である葬儀に「参列ご遠慮下さい」なんて、少なくとも「仏さま」は言い
ませんよ。
      



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